September 06, 2008
重要感と愛・つながり 才能と共鳴
昨日は前置きが長くなってしまいました。
片岡洋次郎さんという方の
『整体。共鳴から始まる』
(ちくま文庫)¥640
という本に、昨日お話した
『重要感 ⇔ 愛・つながり』が
『才能 ⇔ 共鳴力』
の視点から書かれていた箇所があったので
面白いなと思い、紹介します。
この本は、
一人ひとりがもっと元気よく生きるためには、
人の行動や言葉、コミュニケーションの裏側にある、
“共鳴” “気”的作用に気づくといいのではないか。
というテーマでとても面白いことがたくさん
書かれてます。
ご興味のある方はぜひ一読を。
気的コミュニケーション=共鳴力
『人はまわりの人やモノとのつながりを感じなければ
元気に生きてゆけない。
また、元気をなくしている人でも、人との共鳴を
体験すると元気をとりもどす。
元気がないということは周りの世界とのつながりが
良くないということだし、
元気があるということは周りの世界とのつながり具合が
良いというふうに言い換えられる』
人は誰でも気的コミュニケーションを行っているが、
それは、自己を強く持とうとしたり、
人を支配しようとするほど弱くなり、
自己を希薄にするほど強くなる。
特に言語を持たない「(脳)障害」児や幼児は
気的コミュニケーションを持っている。
ということで、以下、長いですが抜粋です。
================
誰でも脳に「障害」を持っていると言える。
「才能」とは「障害」の一種であって、
社会的に有用と認められるものが「才能」とよばれる。
ヒトの言語能力も動物一般から見れば一種の「脳障害」であるが、人類共通の「障害」として「能力」と認められているのである。
それによって世界と共鳴する気的コミュニケーションを不完全なものにし、代わりに世界を対象化し、言語的に理解する「能力」を持ったのである。
宗教的「行」や祈りや瞑想は、
世界との共鳴への回帰を目指すものであり、
音楽や芸術活動、踊り、スポーツもそこへ行き着こうとするが、「才能」が大きいほど行き着くのは難しい。
表現する能力が大きいほど共鳴力は抑えられ、
共鳴力が大きいほど表現するのは難しい。
しかし、すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があり、
表現の枠を破って、
見たり聞いたりする人との間にあふれ出すのである。 ===============
『重要感』と『愛・つながり』は相反する。
そして、この感情のニーズをネガティブに、
他人から満たしてもらおうとすると
苦しい。
だから他人によってではなく自分で満たしていく。
重要感であれば、
人から認められたい!他人からの賞賛がほしい!
ではなく、
例えば、自分で小さな目標を決めて、(ほんとに些細なことからでいいと思います。今日は本棚を整理する!とか)それを達成することで自分を認めていく。
愛・つながりであれば、
私はこんなに尽くしているのに・・・と自己犠牲で受け入れられようとしたり、強引に(仮病をつかって気をひいたり・・・(子供にありがちです)拗ねたり、怒ったりして)他者を従わせようとするのでなく、
自分から求めて、何かサークルに入ってみたり、
コミュニティを作ってみたりする。
いつ、もらえるかわからないものを待っているより、
自分から与えて、他人の喜びを自分の喜びにしちゃう。
と学びました。
そしてきっと、片岡さんの本に書いてあるように、
対極にあるもの、相反するものの本質は、
それが、同じ、ひとつのもの・・・
すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があるように、
愛とつながりの中にこそ、自分の生きる意義、意味が
キラキラと輝いているんですね。
ヨーガの原理も
結合、調和、統一でした。
片岡洋次郎さんという方の
『整体。共鳴から始まる』
(ちくま文庫)¥640
という本に、昨日お話した
『重要感 ⇔ 愛・つながり』が
『才能 ⇔ 共鳴力』
の視点から書かれていた箇所があったので
面白いなと思い、紹介します。
この本は、
一人ひとりがもっと元気よく生きるためには、
人の行動や言葉、コミュニケーションの裏側にある、
“共鳴” “気”的作用に気づくといいのではないか。
というテーマでとても面白いことがたくさん
書かれてます。
ご興味のある方はぜひ一読を。
気的コミュニケーション=共鳴力
『人はまわりの人やモノとのつながりを感じなければ
元気に生きてゆけない。
また、元気をなくしている人でも、人との共鳴を
体験すると元気をとりもどす。
元気がないということは周りの世界とのつながりが
良くないということだし、
元気があるということは周りの世界とのつながり具合が
良いというふうに言い換えられる』
人は誰でも気的コミュニケーションを行っているが、
それは、自己を強く持とうとしたり、
人を支配しようとするほど弱くなり、
自己を希薄にするほど強くなる。
特に言語を持たない「(脳)障害」児や幼児は
気的コミュニケーションを持っている。
ということで、以下、長いですが抜粋です。
================
誰でも脳に「障害」を持っていると言える。
「才能」とは「障害」の一種であって、
社会的に有用と認められるものが「才能」とよばれる。
ヒトの言語能力も動物一般から見れば一種の「脳障害」であるが、人類共通の「障害」として「能力」と認められているのである。
それによって世界と共鳴する気的コミュニケーションを不完全なものにし、代わりに世界を対象化し、言語的に理解する「能力」を持ったのである。
宗教的「行」や祈りや瞑想は、
世界との共鳴への回帰を目指すものであり、
音楽や芸術活動、踊り、スポーツもそこへ行き着こうとするが、「才能」が大きいほど行き着くのは難しい。
表現する能力が大きいほど共鳴力は抑えられ、
共鳴力が大きいほど表現するのは難しい。
しかし、すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があり、
表現の枠を破って、
見たり聞いたりする人との間にあふれ出すのである。 ===============
『重要感』と『愛・つながり』は相反する。
そして、この感情のニーズをネガティブに、
他人から満たしてもらおうとすると
苦しい。
だから他人によってではなく自分で満たしていく。
重要感であれば、
人から認められたい!他人からの賞賛がほしい!
ではなく、
例えば、自分で小さな目標を決めて、(ほんとに些細なことからでいいと思います。今日は本棚を整理する!とか)それを達成することで自分を認めていく。
愛・つながりであれば、
私はこんなに尽くしているのに・・・と自己犠牲で受け入れられようとしたり、強引に(仮病をつかって気をひいたり・・・(子供にありがちです)拗ねたり、怒ったりして)他者を従わせようとするのでなく、
自分から求めて、何かサークルに入ってみたり、
コミュニティを作ってみたりする。
いつ、もらえるかわからないものを待っているより、
自分から与えて、他人の喜びを自分の喜びにしちゃう。
と学びました。
そしてきっと、片岡さんの本に書いてあるように、
対極にあるもの、相反するものの本質は、
それが、同じ、ひとつのもの・・・
すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があるように、
愛とつながりの中にこそ、自分の生きる意義、意味が
キラキラと輝いているんですね。
ヨーガの原理も
結合、調和、統一でした。
moriokayoga at 00:12│Comments(2)│
│コーチング
この記事へのコメント
2. Posted by moriokayoga October 19, 2008 09:55
Hi cola!
コメントありがとう〜お久しぶり!
ぜひぜひこのテーマ、
また語り合いたいな。
> 「対極にあるもの、相反するものの本質は、
> それが、同じ、ひとつのもの・・・
>
>
> すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があるように、
>
> 愛とつながりの中にこそ、自分の生きる意義、意味が
> キラキラと輝いているんですね。」
>
> とてもよくわかりました。
>
> ”ひとつ”の表と裏 表裏一体。
> そう、ちょうとテーマだったの〜!
>
コメントありがとう〜お久しぶり!
ぜひぜひこのテーマ、
また語り合いたいな。
> 「対極にあるもの、相反するものの本質は、
> それが、同じ、ひとつのもの・・・
>
>
> すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があるように、
>
> 愛とつながりの中にこそ、自分の生きる意義、意味が
> キラキラと輝いているんですね。」
>
> とてもよくわかりました。
>
> ”ひとつ”の表と裏 表裏一体。
> そう、ちょうとテーマだったの〜!
>
1. Posted by colaぷかこ September 30, 2008 00:01
「対極にあるもの、相反するものの本質は、
それが、同じ、ひとつのもの・・・
すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があるように、
愛とつながりの中にこそ、自分の生きる意義、意味が
キラキラと輝いているんですね。」
とてもよくわかりました。
”ひとつ”の表と裏 表裏一体。
そう、ちょうとテーマだったの〜!
それが、同じ、ひとつのもの・・・
すぐれた表現の裏には強力な共鳴力があるように、
愛とつながりの中にこそ、自分の生きる意義、意味が
キラキラと輝いているんですね。」
とてもよくわかりました。
”ひとつ”の表と裏 表裏一体。
そう、ちょうとテーマだったの〜!